Gena(ジーナ)の飲んだくれ太腕繁盛記

健康であれば大抵のことは気合いと根性で乗り切れる!

伝えるべき事

今日も暑い一日でした。
68回目の「終戦記念日」でしたね。
正午には黙祷しました。
 
昨日観た「終戦のエンペラー」もですが、岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」を、観ないと
いけないな~と思いました。
50年近く生きてても、知らないことが多すぎる…恥ずかしいことです(>_<)
 
去年の夏も書いた話ですが、私の母が4歳になる直前、昭和20年7月1日に呉市街は大空襲
に遭いました。
母方の爺さまは、足のけがの後遺症が原因で徴兵検査に通らず(当時45歳ぐらいか?)、出
征していませんでした。
婆さまには8人子供がいて、長男は出征していました。
1人は養子に出しており、残り6人の子供が一緒に生活していました。
空襲警報が発令されて、爺様は上の4人を連れて避難しました。
婆さまは、母のすぐ上の姉(7歳)と母(3歳)を引き連れて、 身重の身で逃げました。
防空壕はどこも一杯で入れて貰えず、婆さまは幼子と共に山に逃げ、山から街を見下ろすと、
焼夷弾が雨のように降り注いでおり、麓の街が真っ赤に焼けていたそうだ。
 
夜が明けて、山を下った婆さまが見たのは、断られた防空壕の中の死体の山でした。
避難した人達は焼夷弾の熱で、防空壕の中で蒸し焼きになったのでした。
もし、どこかの防空壕に避難していたとしたら、祖母と母の姉と母は死んでいたかも知れない。
そうすると、私も現代でこのように、飲んだくれながらブログを書けなかったわけで…。
まさに「塞翁が馬」である。
何が幸いするか分からない。
母はその時の記憶と、祖母からの話を私に伝えてくれた。
 
呉は戦艦大和を作って出港させた街だが、海軍工廠が在ったために、何度も空襲に遭ってい
る。
最後の大きい空襲が7月1日だった。
婆さまはその後、爺様と落ち合い、爺様の田舎に疎開した。
それにしても爺様は、何で上の子供達ばかりと逃げたのか?…真相が分からない(@_@;)
婆さまは身重の身で、幼児を2人抱えて、よく無事に逃げおおせたものだ。
7月17日、婆さまは難産の末に9番目の子供(私の叔父)を出産した。
産婆さんが「わしは長年産婆をしておるが、こんなのは初めてじゃ!手に負えん」と、言ったぐら
い難産だったそうだ。
 
その叔父も68歳になった。
一応は戦前生まれになるのか?
こういう他愛の無い話でも、市井(しせい)にはたくさん有ったんじゃないかな?
私はこの時期が来ると、必ずどこかで誰かにこの話を話す。
戦争体験者は思い出すのが辛いだろうが、子供や孫や曾孫に自分の体験を話して貰えたら、
今日が「何の日」か知らない、若者が減るんじゃないかしら?
そんなことを考えた一日でした。