Gena(ジーナ)の飲んだくれ太腕繁盛記

健康であれば大抵のことは気合いと根性で乗り切れる!

終戦記念日

本日は「終戦記念日」です。
残念なことに、今日が「何の日」か知らない若者が増えているようだ。
これは私の年代が親や年寄りからちゃんと話を聞いてないのか、自分の子供に
伝えて来なかったのも一因かも知れない。
今の10代の子供たちだと、ちょうど私の年齢が親世代となる。
私は早生まれだけど同級生は46歳になるのだから、30歳の時に出産した子供
でも、高校生になるわけね^_^;
以前書きましたが(8/6ブログ記事「盆灯篭」)、私は母から体験を聞いていたの
で、この時期には知人や友人などと話しているときに、自然と「この場に居なかっ
たかも知れないのよ…」と話しています。
 
興味あるか無いかはその人によりますが、聞いているうちの何%かは頭に残るの
ではないか?と思い、母から聞いた防空壕の話や高校の友達が亡くなった話をし
ています。
 
私の高校では2年生の6月に研修施設で2泊3日で研修を受ける。
「研修」と言っても、短艇を漕がされたり自転車で走らされたり…と、体力を鍛える
ような内容で、女子高ではあまり意味が無い気もする(今考えると…)
その研修から帰って翌日から友達が学校を休み、そのまま夏休みに入ってしまい
ました。
研修中には元気だったのに…と不思議に思ったのだが。
 
実は彼女「急性リンパ性白血病」を発症し、病院に入院したのだった。
このことは私を含め、クラスでも一部の者しか知らなかった。
彼女は学校の隣の総合病院に入院していることもあり、何度かお見舞いに行った。
9月中旬に体調が良くなり、病院から1時間だけ彼女は授業を受けに登校しました。
元気な彼女の姿を見たのはそれが最後でした。
その後1週間ぐらいは体調が良くて、自宅にも一時帰宅させて貰ったようだが、残念
ながら10月に入り彼女は亡くなった。
発病してわずか3カ月余りだった。
 
彼女は島に住んでいたのだが、とても色白で目鼻立ちの整った美人だった。
島に居住していると、潮風に焼けて肌が浅黒い人が多いのだけど、彼女と彼女のお母
さんは色白でした。
後にクラスの仲が良かった子たちと、彼女の実家に御仏壇を参りに行きました。
そのときに聞いた話ですが、原爆投下後1週間の広島市内に、人を探しに親に連れら
れて、当時幼児だったお母さんが行ったそうです。
つまり「二次被爆」したそうです。
因果関係は分からないけれど、もしかしたらこれが影響しているのかも知れない…と
話されていました。
実際どのぐらいの時間を、広島市内で過ごしたのかは分かりませんし、彼女が発病した
ことが原爆の影響なのかも分かりません。
だけど私はこの時期、あえて彼女の話を伝えます。
 
彼女が亡くなって丸29年になる。
66年目の「終戦記念日」に、いろいろ考えてみました。